1939年、前橋市に福島ミシン店の三代目として生まれる。

-三代目の店主さんですね。
「はい。創業は大正4年。私の祖父が初代です。祖祖父が前橋で料理屋をやっていて、祖父はそこの三男坊。今は鰻屋になりましたがやっていますよ。『矢内』って店です。祖父は別の店で板前をやってましてね。『あと3年修行したら店を持たせてやる』と言われたらしいんですが、やめちゃった。それでシンガーミシンに勤めに出て、独立したというわけです。最初は本町の八幡宮の近くで始めて、その後、今の店の前の道路が広がるというんで、大正8年に移ってきました。ここの道路は昔、八軒道路と呼ばれていて狭かったんですよ。当時、ミシンは高級品でしてね。お客様のところにミシンを納めに行くと近所中の人が見に来たって聞いてます。ミシンていうのは『ソーイングマシン』の代名詞なんです」

-それで二代目がお父様。
「父は婿養子で、太田市の出身です。講道館柔道の三段、前橋刑務所で働いていました。母とは恋愛結婚して、ミシン屋に婿に入ったんです。父に代を譲ってから祖父は『群馬県ミシン組合』の組合長になりました。戦前から戦後まで長くやってました」

-その頃でしたらミシン屋さんは儲かっていたのでしょうね(笑)
「私が1歳の頃、父が故郷の太田に支店を出したんですよ。そこでミシンが三月前金で月に80台売れたって言ってました。男の従業員が7人いて、朝から晩までミシンを組み立てていたらしいです」

【「最新型のミシンはすごいですよ」と自ら実演する福島さん】

-ミシンってお店で組み立てて販売するのですか!?
「戦時中は、この辺の部品工場がみんな軍需産業の方に行っちゃって、ミシンの部品を作る会社がなくなっちゃった。父は1日おきに東京まで部品の仕入れに行ってました。昔は足踏みミシンですから、頭の部分だったりテーブルだったり、脚なんかを仕入れたりして、それを組み立てて売ってたんです。父は旧制太田中学卒業ですから地元の先輩や後輩も買ってくれたし、当時の中島飛行場に徴用に来てた人が洋服を直すためにミシンをよく買ってくれたんですね。社長の中島知久平さんの家にも出入りしてました。私も連れて行かれたことがあって、子供でしたけどとにかくすごいお屋敷で女中さんが10人くらいいたのを覚えてますね」

戦争を経て

-では、戦争中もご商売は続けておられたんですね。
「それが、父が軍の徴用に引っ張られちゃいましてね。千島列島の松輪島という島の基地に配属されました。昭和16~17年くらいだったでしょうか。それでやっと戦争が終わったと思ったら、ソ連が入って来て今度はシベリアに抑留されました。捕虜ですからね、森林の伐採なんかやらされてたらしいです。結局父が帰って来たのは昭和24年でした」

-そうでしたか。戦後になっていかがでしたか?
「戦争が終わると、それまで機関銃やなんか作っていた会社が今度はミシンを作り出したんです。でもやはり部品が無くてね。前橋あたりでは戦後すぐに、ある大きなミシン屋が東京の焼け跡からミシンを拾って来て、それを塗り替えたりして売ってました。結構売れたようですが、でもそういうミシンは鉄がおかしくなってますから、すぐに変形したり壊れちゃうんですよね。結局、そのミシン会社は商売やめちゃって、それでそこにいた従業員がみんな独立してミシン屋始めたんですよ。だから前橋にはすごくミシン屋が多かった。十数件あったんじゃないでしょうか。うちは祖父が『焼けミシン』は売りませんでした。やっぱり評判落としたくなかったんでしょう。それでも売れてましたよ。タンスと下駄箱とミシンは当時の嫁入り道具でしたから」

-なるほど。では戦後はお父様も大変だったのですね。
「そうですね。次第に景気も良くなったのですが、貸し倒れがあったりしましてね。それでも昭和45年に私が店主を引き継ぐまで頑張っていました」

ミシン店の跡継ぎとして。しかし、なぜか京都へ。

-ようやく三代目の登場ですね!
「店主になる前は、高校卒業して23歳から友人と一緒に父の手伝いを始めました。まあ、そこからですね。その友人は高校の同級生で自動車会社の部品課長を辞めてまで仕事を手伝ってくれました。その後また別の会社に転職しましたが、今でも時々手伝いに来てくれます」

【ここが福島さんの作業場。ミシンの修理依頼は絶えません】

-23歳からということは、その前は何をされていたのですか?
「京都の呉服問屋に住み込みで働いていました」

-京都ですか! なぜ京都に?
「高校の修学旅行で京都に行きまして、すっかり京都が気に入ってしまったんですね。それで卒業後は京都に行きたいと言ったら担任の先生が知人を通じて京都に働けるところがあるかどうか聞いてくれたんです。そうしたら呉服問屋なら入れてもらえそうだと。そこに住み込みで働き始めました。京都の中でも大きな呉服問屋でね。住み込みだけで50人くらいいて、全国のデパートや呉服店に卸していました」

-呉服問屋では主にどんな仕事をされていたのですか?
「ちょうど『大島紬(おおしまつむぎ)』がブームで、20歳くらいの時かな、私が担当になりました。奄美大島まで仕入れに行ったこともあります。『大島紬』だけで当時の額で年間3億売れましたよ。店長付きも一年やりました。付き人ですよね。その時にね、私は自動車の免許を取ってまだ16日目だったんですが、車を運転して三和銀行の店長の車に追突事故を起こしてしまったことがあって。こちらが悪かったんですけど、相手の銀行の店長が菓子折りを持って謝りに来てくれたんです。『大変失礼しました。申し訳ありません』と言ってね。銀行にとって呉服問屋はそれだけ大きな取引先だったんですよ。結局その呉服問屋には5年半いました」

-前橋に帰って来たのには理由があったのですか?
「私は一人っ子ですから。やはりミシン屋を継がなきゃというのが大きかったです。父は何も言いませんでしたが、責任がありますからね。それが昭和37年。その頃は女性の内職が盛んで工業用のミシンがずい分売れました。女の人がお金を稼ぐにはミシンが必要な時代だったんですね。とにかく忙しかったですよ。昼間は納品や集金、修理にも行きましたしね。だからやっぱり組み立てるのは夜中になっちゃう。隣のバーの人に『お宅も夜の商売と同じだね』って言われてました(笑)」

「買いませんか」とは言いません。

-その後、結婚されたのですね。
「昭和45年に結婚しました。店を継いだのと同時期です。結婚当初は大利根団地の公社住宅に住んで、ここまで通って来てたんですよ。その後、平成元年に店を改築しましてね。1階の奥と2階を住宅にして、ここに住むようになりました」

【お客様の写真はアルバムに入れて大切に保管】

-長く商売を続ける上で、気を付けていることはありますか?
「例えばコーヒー1杯飲むのだって気に入らないお店には行きませんよね。ましてミシンは何万円も何十万円もするんですから、お客様に嫌われないことです。人間関係は大事ですよ。私はお店に来てくださるお客様にも『どうですか、買いませんか』とは絶対言いません。ただ最新型のミシンの説明をするんです。実際に動かしながら『最新型のはこんなにすごいんですよ、っていうのをお見せするんです。そうすると気に入って買ってくださったりしますね。それと例え電話一本でも、いつ、誰と、どんな話をしたか、全部ノートに書き留めるようにしています。次に電話があった時、忘れちゃってお客様に不愉快な思いをさせたくありませんから。呉服問屋で学んだことが、ミシン屋の仕事にも活きてますよ」

-率直な話、昔と違って今はミシンの販売台数ってどうなんでしょうか?
「今は内職という働き方が減ってますし、縫製の仕事はみんな海外でやってますからね。それでも月に何台かは今も売れてます。でもやっぱり修理依頼が多くなりましたがね。問い合わせは群馬県中からありますよ。それだけ修理の相談ができるミシン屋が少なくなっているんでしょう」

-嬉しかったことはありますか?
「ずい分前にミシンを買ってくださったお母さんが、娘さんを連れて一緒に来てくださったりするんですよ。そういうのは嬉しいですね。それとお客様を紹介をいただいた時ですね。丁寧で正直な仕事をしていると、しっかりお客様は覚えていてくださいます。そういう評判は広がっていきますから。本当にうちは女性の口コミで食べさせてもらっているようなものです。ありがたいですね」

-そうですか。貴重なお話、ありがとうございました。


■ 三代目 福島ミシン店
前橋市城東町2-5-3 Webサイト