1958年、北海道紋別市に生まれる。
「そうです。いわゆる『紙モノ』をずっとやっていますが、最近ではWebサイトの制作も行っています」
「幼稚園の頃からいろいろな印刷物を集めるのが趣味で、絵を描くのも好きでした。あとは文字をデザインして書いたり、いわゆるレタリングですね。田舎でしたから教えてくれる人もいなくてすべて我流でしたが、結構ハマっていました。子供の頃から漠然とそっちの道へ行きたい気持ちがあったのかもしれません」
「大学は工学部工業化学専攻だったんですが、まったく興味が持てず、ゆくゆくは美大に入り直そうと考えていました。で、その後東京へ出て美大進学コースがある予備校に⼊りました。そこで出会った非常勤の先⽣に気に⼊られ、その先生の本職であるイラストの仕事の⼿伝いをさせてもらうようになったんです。楽しかったですねえ。そうなっちゃうと進学とか馬鹿らしくなっちゃって、学校には行かずそのままイラストレータになっちゃいました」
「そうです。その先⽣から『イラストレーションというものは印刷物が作品なんだよ。原画がいくら素晴らしくても印刷物上でそれが再現されていなければ意味がない。グラフィック・デザインや印刷の知識がないと生き残れないぞ』と⾔われ、じゃあ、ってことで試しにデザイン事務所で働き出しました。でも同時にイラストの仕事も入ってきていたので、そっちの方は会社から帰宅後に家で描いていたんです。でもそんなことをしていると会社の出勤時間に間に合わないんですよ。それにイラストの稼ぎは会社の給料の2〜3倍ぐらいになるときもあって、会社に行っているのがバカバカしくなっちゃって。結局そのデザイン事務所も辞めてしまいました」
いざ、ニューヨークへ!
「そうです。ただ、独立して間もなく『ヘタウマ』ブームがやってきて、私が描くような時間のかかるスタイルはちょっと時代遅れみたいになってきたんです。仕事がヘタウマに取られつつあった。これじゃまずいってことで、私も何か新しい絵のスタイルを探そうと思ったんです。それには日本にいてもだめだ、ニューヨークにでも⾏って、それを盗んで⽇本に持って帰って来ようと。それでニューヨーク旅行に⾏きました」
「想像してたのと違いましたね。まずニューヨークには日本みたいないわゆる『流⾏』が無い(笑)。行って間もなくファインアートをやっている連中と仲良くなったんです。ファインアートをやっている⼈たちは、イラストレーションの仕事はやりません。アートとイラストはまったく違うもので、お互い相容れないものだということをそのとき知りました。彼らは自分のアート作品を『流行に乗せよう』とか『売れよう』なんて考えずに、自分の信じるものをただ黙々と創り続けているわけです。私も『流⾏のスタイルを盗んで日本に持って帰ろう』なんて考えていたことを恥じたと同時に『ああ、もうダメだ、これはもうここに住んで、私も自分の信じるものを黙々と創り続けるしかないな』と思うに至りました」
「そうですね」
デザイナーへの道。アメリカ永住権取得
「そうかもしれません。⽇本で発行されている雑誌にニューヨークの記事を書いたりして生活費を稼ぎながら暮らし始めたのですが、ビザの延⻑ができなくなりそうになったんです。ビザがないと、このままニューヨークには住めない。『どうしよう』と思っていた矢先、グラフィック・デザイナーを探している会社から『うちで働かないか』とオファーがありました。デザインにも会社勤めにもまったく興味がなかったのですが、永住権申請のスポンサーになってくれるというので、一も二もなくそのオファーに飛びつきました」
「めちゃくちゃ大変です。仕事が結構きつかったですし、どれだけ待てば永住権が出るのかもわからない。最悪の場合、永住権が取れずに国外退去になる可能性もありました。申請中はアメリカ国外にも出られませんし……。我慢して我慢して、結局4年かかりました。おそらく人生で一番きつい時間だったんじゃないかな」
「永住権取得のために勤めているわけですから、雇用側も給料は永住権取得のために必要な最低賃金しか払ってくれません。長時間就労は当たり前だし、文句を言うと辞めさせられるかもしれないという恐怖感もありましたから、黙って黙々と働くしかなかったですね」
「アメリカ企業の仕事もありましたし、在米日系企業の仕事もありました。この会社にいた時は、在米邦人向けというのが多かったです。そこにいたときに、ある米系長距離電話会社の仕事に携わらせてもらったんですが、私が手がけた広告がいくつかヒットし、その会社が数多くの在米邦人の顧客を獲得できた、ということで私も注目してもらいました」
「永住権取得後はそのデザイン会社を辞めました。そしてまた絵を描く生活に戻ろうと思ったんですが、会社を辞めた後もデザインの仕事がどんどん来るようになったんですよ。日系や米系の大手広告代理店からも引き合いが来るようになりました」
空手バカ一代に憧れて
「妻と出会って結婚しました(笑)。それと空手を習っていました」
「そうです。漫画の『空⼿バカ⼀代』のファンで、その漫画に登場する人物がニューヨークで 道場を開いているのを知りまして。渡米して間もなく⾶び込みました。⿊帯を持ってます。それとバックギャモンですね。日本にいる時から好きだったんですが、ニューヨークにはいくつもバックギャモンのクラブがあってね。よく出入りしていました。結構強かったんですよ。そのクラブに来ていた⼀⼈が、今の妻です。⽇本から歌の勉強に来ていたんです」
「1984年から2014年まで、30年ですかねえ」
「日本に残してきた私の家族や妻の家族、また仕事や人間関係など、その当時身の回りに起こるいろいろな事象のベクトルが、どういうわけだか日本の方に向いているように感じました。もう若くはなかったので以前のような困難に立ち向かうパワーにも陰りを感じていましたし、ニューヨークに来た時とは違って守るべき家族もできましたし。まあ、抵抗もしてみましたけれども、結局はそのベクトルに従ったって感じでしょうか」
「やっぱり絵を描くことが好きなんで、また絵を描く生活ができたらいいですね。またそれとは別に『こんな印刷物があったら自分で見てみたいなあ』というものをデザインして印刷して、実際に見てみたいです。もしそれが仕事につながれば最⾼ですが、難しいでしょうね」
■ ダイニデザイン室 Webサイト